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教育現場を離れて教育現場を視る-道徳の教科化篇-

戦後、なんだかんだで見送られてきた「道徳」の授業の「教科化」。いじめ問題の深刻化など、子どもを取り巻く環境の変化からついに踏み込まれてしまいました。

 

もちろん道徳の授業で考えられる最低限の道徳的な心や倫理観はあるだろうし、何か問題を抱えた子どもを見つけるための手段にもなるとは思っています。でも、教科書を使って、評価されるものではないと強く思うのです。しかも使用される教科書が

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こんな、凝り固まって偏ったものならなおさらです。

記述式評価だからそこまで構えなくていい?

実際にこれから、学校教育における教科としての道徳で、何がどうやって評価されようとしているのか、教育指導要領をのぞいてみましょう。 

道徳科の評価の具体的な在り方については,平成27年度に文部科学省において,
・ 数値による評価ではなく,記述式であること。
・ 他の児童との比較による相対評価ではなく,児童生徒がいかに成長したかを積極的に受け止め,励ます個人内評価として行うこと。
・ 他の児童生徒と比較して優劣を決めるような評価はなじまないことに留意する必要があること。
・ 個々の内容項目ごとではなく,大くくりなまとまりを踏まえた評価を行うこと。
発達障害等の児童についての配慮すべき観点等を学校や教員間で共有すること。
・ 現在の指導要録の書式における「総合的な学習の時間の記録」,「特別活動の記録」,「行動の記録」及び「総合所見及び指導上参考となる諸事項」などの既存の欄も含めて,その在り方を総合的に見直すこと。
を前提に専門的に検討を行い,教師用指導資料の作成や指導要録の改正を行うこととしている。
各学校においては,これらに基づき適切に評価を行うことが求められる。

※小学校学習指導要領解説特別の教科 道徳編 第5章 道徳科の評価  第2節 道徳性の理解と評価 2 道徳科に関する評価より引用

あくまで個人の成長を、先生が肯定的に捉え、記述式で評価をしていこうという方針のようです。

 

皆さんは、数字やアルファベットで優劣のつけられる評価ではないと聞いて、どう思われましたか?私は正直こわいです。

数値でなく記述式、個人の成長を踏まえた評価だとしても、「いかに成長したか」について、担任教師のフィルターを通すことに変わりはないんです。人の道徳的な心やその成長を他の人が評価するんです。怖くないですか?

 

子どもはもちろん、先生へのプレッシャーも大きいと思います。先生だって、子どもの成長を見るプロとはいえ人間です。家庭などの学校以外のコミュニティの影響を大きく受けた子どもたち一人ひとりの成長を、道徳という人の心と連動する視点から評価するとなると、「何書けばいいの?」ってなると思うんです。というより、今までも所見で書いてきた部分ではないでしょうか?改めて、教科道徳の評価と位置づけることで、ハードルが上がっただけのような気がします。

 

学校だけでなんとかしようとしてない?

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もちろん、学校における道徳教育が悪いといっているわけではありません。学校という場所でできることもあります。

 

極端な例えですが、「物を盗む」という行動を何も咎められない、許されている家庭があったとします。でも学校で「物を盗む」ことは「してはいけない」ことだと、その子自身の学ぶ機会があれば、その子の道徳観や道徳的規範に新しい風を吹かすことだって可能です。

 

つまり、育ってきた環境だけ、学校教育だけといった特定のコミュニティでは、道徳的な心は育たないと思うのです。道徳的な心は、学校、家庭、地域、その他属する社会における経験を通して、徐々に形成されていくものです。学校の道徳の時間で得た何かを、子ども自身が生活に落とし込めたときに初めて、学校での道徳教育が意味をなしたといえるのではないでしょうか?

生活に落とし込むのは何も学校だけではありません。でも学校で見られる部分は、道徳の時間をはじめ、学校にいる間の子どもたちの姿です。その子の一部分だけを見て、「成長したな」って判断してもいいのか、疑問が残ります。

 

「おりこう」じゃないといけない道徳の時間

このタイミングで質問です。

皆さんは、道徳の時間、好きでしたか?

私は子どものころ、道徳の時間が嫌いでした。よく分からない事例ののった教材本から、「おりこう」な道徳観を読み取って共有し合わないといけないのか、理解できなかったからです。もはや、国語の読解力とか言語力の話じゃないかとも思っていました。 

先生をしていたときのことです。

「私、道徳の時間苦手なんです」

と、ある女の子がいいました。なぜ?と聞くと「なんだか、自分が間違っているような気がするから」と答えたのです。具体的に何がっていうわけではないけれども、子どもながらに、道徳の授業に「正解」とされる何かがあるのを感じ取っているようでした。

もっと、様々な価値観や意見を言い合うだけ、理解できなくても知るだけで十分だと思うのに、学校や学級という狭い社会はそれを許してくれない、そんな気がしていました。

 これまでの道徳の時間には、様々な課題がありました。

• いじめなどの現実の問題に対応できていない

• 読み物を読んで感想を述べるだけで終わっている

• 教科書や評価がないことなどから、他教科に比べて軽視されがち(行事の準備を行う時間になっていることも…)

文部科学省 道徳|道徳の評価の基本的な考え方に関するQ&Aより引用

実際に文部科学省も、道徳の時間が、文章を読み取り感想を言うだけで終わっていたり、現実に起こっている問題にいきていないことに対して課題を感じていたようです。

でもここで注目すべきは、3つ目だと思います。現場で決して軽視されているものではありません。教科や評価がないことが、なぜ軽視されることにつながるのでしょうか?もしかしたらそういう人もいたかもしれませんが。

でも、少なくとも私のいた学校の先生たちは悩みながらも一生懸命授業を作っていました。今クラスの子どもたちが抱えている課題に対して、適宜使用する教材の見直しをしたり、別途用意したりして「自分ごと」として考えさせるためにはどうしたらいいのか、思考を巡らせていました。これを軽率だと言われるんだったら、先生たちはこれ以上何を頑張ったらいいんでしょうか。

 

読み物を読んで感想を述べるだけ、現実の問題に対応できていないと思ったのに、教科書を統一したり、評価をするという結論にたどり着くのは違うでしょう?と思うわけです。短絡的過ぎるというか。

感想を述べるだけの授業を求めていないのなら、もっと目の前の実体験ベースに授業をしてもいいんじゃないでしょうか?現実の問題に対応できていないのなら、その現実の問題に徹底的に向き合う授業を作ればいいんじゃないでしょうか?

 

道徳観を身につける場面って、日常のそこらじゅうにありふれてるんです。愛国心が育たないからと和菓子屋に変えたりする教科書で学ぶよりもずっとリアルな道徳体験が広がっていると思うのです。

自分や身近な人が経験したことを通して、他の人のことを知って、自分を見つめ直す授業のほうが、よっぽど文部科学省が目指す「考え、議論する道徳」に近づくような気がします。

今の道徳の話、ぜひお聞かせください

教科としての道徳は、もうすでにスタートしています。子どもたちは、授業への取り組み方が見られるのか、それとも心の成長が見られるのか、はっきりしていないし、先生方もきっと評価のあり方に頭を悩ませているのではないでしょうか?

評価という言葉の重み。評価という言葉を使うことによって変に複雑になってしまって、道徳が本音を言えない、窮屈さを感じる時間にならないことを祈ります。

また、教科書と評価が導入された道徳の授業について感じることなどありましたら、ぜひ私に意見をお聞かせください。