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なごと

好きなものと猫とトイレ

学校は価値観を押し付ける場所?

日常

みなさん、こんばんわ。クリスです。

今日は以前noteに書いていたものをこちらにのせようと思います。理由としてはnoteまで面倒見るほど器用じゃないからです。

  

qris.hatenablog.com

で軽ーく触れましたが、私、実は先生してたんです。私みたいなのが教壇に一度でも立ったという事実を日本は危惧したほうがいいと思います。

とはいえ仕事は真面目に取り組み、それなりに、いやかなり今の教育についても考えることもあったんです。実は真面目なので。その反動でう〇ことかち〇ことかでキャッキャ言うようになったのかもしれません。

 

ということで、今回は私なりに教育現場に感じたことをつらつらと書きました。以下note転載分です。お暇でしたら。

 

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Q.子どものころ、学校のルールになんでだろうと疑問を抱いたことがありますか?

 

学校って、規模の大小はあるにしろ、どこの学校に行っても独自のルールみたいなものがありますよね。

なんでこんなことしないといけないんだろう…と幼いながらに思ったことはありませんか?

 

私が感じた学校ルールへの違和感

 

私は、ひねくれたガキンチョだったので、ありとあらゆることに疑問を持っていました。子どもながらに。

「なんでつまんない校長先生の話を立って聞かないといけないんだろう」

「なんで急いでいるのに廊下は走っちゃダメなんだろう」

「なんで友達の喧嘩のことで学級会議に参加しないといけないんだろう」

「なんでやる気の無いことに取り組まさせられてるのに、取り組み方に意欲がないと怒られなければならないんだろう」

 

子どもの私にとって学校はなんでのオンパレードでした。こんなガキンチョなのに先生を目指したことがおかしいんですがね。

 

とにかく

「みんながしているからあなたもしなさい」

みたいな風潮に、ものすごーく違和感を感じていたんだと思います。

なんで、みんながしているからって、自分の行動をコントロールされなければならないのでしょうか?

 

みんながしていることは”善”?

 

みんながしていること、大多数がしていることってそんなに素晴らしいことなんでしょうか?大多数の行動からあぶれた子は問題児なのでしょうか?私は違うと思います。

これは子どものときではなく、先生になってから強く感じたことです。

先生時代に、子どもに尋ねられました。

「なんで、自信がなくても手を挙げないといけないの?」

 

そうなんです。先生って発表の手があがることを喜ぶ、ちょっと変な職種なんです。

「失敗を恐れるな」「間違ってもいい」

という精神論のもと、この自信のない挙手が半強制的に行われているところがあるのです。

 

もちろん発表すること自体は素晴らしいことですし、失敗を恐れずに自分の考えや回答を人前で披露する勇気はたたえたいとも思います。ですが、自信がないのに、なんで無理に発表しなければならないのでしょうか?

 

大人でも自信のないものを人前に出すときって、嫌なドキドキを経験しませんか?

例えば、会議で、自信のない企画を通すことほど怖いものはありませんよね?(そもそもそんなもの出すなよって声も聞こえてきそうですが…)営業成績を発表する場では、成績があまりよろしくない場合、上司のお怒りを覚悟の上臨みますよね?

大人でも自信がない時は消極的になるのに、子どもに強要しちゃだめだと思うんです。もしかしたら、たった一回のその発表の失敗が、その子の今後を左右してしまうかもしれないのに…と思っていました。

 

自信がないから発表しないという選択は、その子にとってベストな選択なんです。自分にできること、できないことを判断する力とも捉えられませんか?だから、周りのみんなが元気に「はい!」と手を挙げる中で、沈黙を続けるという行動も私は全然アリだと思うんです。

ですが、私も指導を円滑に進めないといけない身分でもありましたので、なんだかんだ「みんなもそうしてるから」みたいな風潮を子どもに押し付けていました。「失敗してもいいからさー」とか言って。だって、発表点とかあるんですよ…。

 

学校現場の「みんながしているから」というルールは一種の凝り固まった善の価値観だと思っています。非常に柔軟性のない絶対的”善”なのです。これからあぶれたら悪いとか心配とかいうレッテルを張られてしまう、過酷すぎる現場です。

ちなみに、さっきの発表の件も、あまりに発表しない、手を挙げない子に対して、先生は過剰なまでに反応を示します。

「もっとあの子が発表できるよう環境を整えよう」

「指名制にしよう」

「消極的で心配」

と先生によって対応、反応も異なり、たいてい通知表にコメントがかかれたりします。正直いらん世話と思うこともありました。言ったら怒られるから言いませんでしたが…。

一般的にみたらあくまで消極的というだけであって、きちんとその子が自分の力を見極めてることを褒める人がいてもいいと私は思うのです。

善の押し付けに苦しむ

私も一社会人。上の言うことには従わなければなりません。

ですが、この”善”と定義されているものの押し付けに悩む子どもの姿を見ていて何度もつらくなりました。というのも、私もその子たちの「なんで?」に同意しちゃってたからなんです。

だから「なんで?」に回答できるわけもなく、けっきょく伝家の宝刀

「みんなそうしているから」

で片づけてしまうなんてことが多々ありました。ごめんよ…。

 

もちろん、周りに合わせる力を身につけることは大事なことだと思います。周りの空気を読んで自分の行動をコントロールする力は、日本という国の性格上、必要不可欠な力ですし。

ですが、この力は

「身につける」ものであって、

「身につけさせる」ものではありません。

子どもが自分で状況判断をして、身につけていくからこそ、ルール・価値観を受け入れることができるのだと思います。

 

「こうしなさい」「みんなしてるから」と、善とされている価値観を押し付けられても、納得できなければ、身についたとは言えませんよね?納得してないんだもん。

 

でも、今の教育現場で、子どもに社会性を「身につける」時間はないと思います。先生が時間に追われているので。

時間がなければ「身につけさせる」ほうが圧倒的に効率がいいのです。だから、今の教育現場で、ルールに納得できず、気持ちに折り合いをつけることができずに、善という価値観の押し付けに苦しんでいる子どもたちがいるのだと思います。

 

先生たちにも子どもたちにも心の余裕がないから、押し付けになってしまっている現状を、国のお偉い方々は、どうとらえてるのでしょうか?プログラミング学習の導入?道徳の教科化?何それ?

 

先生の心の余裕がないから、子どもも苦しんでるんだってば。

 

まあ、私の言っていることも、非現実的ですが…。

たった1年ちょいで辞めた私が言うのもおかしな話ですが、当時の若手が感じた、違和感にも一理あるんじゃないかと思ってもらえたらうれしいです。